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風土について

焼酎のふるさと 南薩摩

薩摩半島は大隅半島とともに、鹿児島県を二分する半島です。南薩摩はその半島の文字通り南の地域です。東は錦江湾に、西は東シナ海に面しています。
地図を見て下さい。錦江湾の方から見た南薩摩地方は鹿児島の「鹿」にあやかるわけではありませんが、鹿の横顔に似てると思いませんか。
鼻が開聞岳、口が指宿、鼻の穴が池田湖、そして目が枕崎や坊津、角が野間岬で耳の付け根が加世田でしょうか。
半島の東西には開聞岳と野間岳がそびえています。なかでも海辺からすっくと立ちあがった開聞岳は薩摩富士とも呼ばれ、多くの人々の信仰や敬愛の対象となってきました。

古くから栄えた南薩摩

古くから栄えた南薩摩

南薩摩は焼酎のふるさとだけでなく、日本の神話や古代文化が息づいていたふるさとでもあります。
「日本書紀」や「古事記」に登場する笠沙宮や阿多隼人、また鑑真和尚がたどりついた坊津。坊津は後に遣唐使や南海貿易の拠点として、那の津(博多)や安濃津(伊勢)とともに日本三津の港とも呼ばれていました。
ただ、薩摩半島の大半はシラス台地です。今では広大なサツマイモ畑や茶畑が広がっていますが、この美しい緑の大地の下には開墾や畑地灌漑など多くの人々の永年の血と汗と涙が脈うっているといってもいいでしょう。

乏しさが生む豊かな匠と銘水

乏しさが生む豊かな匠と銘水

枕崎から笠沙地方にかけては、断崖の入り組んだリアス式海岸です。しかし、時として田畑の乏しさは、豊かな技能集団を育てるものです。
明治期、薩摩で焼酎造りがさかんになるとともに、笠沙の黒瀬杜氏の男衆は、杜氏として各地の蔵元に出向きました。これが後に阿多杜氏とともに黒瀬杜氏と呼ばれる技能集団の系譜を作ったのです。
収穫の秋が近づくころ家を出て、半年ほど焼酎を造って、春わがやに帰る。黒瀬杜氏たちは、まさに腕一本でこの世を渡るマエストロたちです。
さらにシラス台地は、保水性はありませんが、地下には焼酎造りに最適な水を湛えています。薩摩・大隅が今日、銘水のふるさととも言われるのもその証しでしょう。
枕崎の白沢地区にも、神の河と呼ばれる湧水があります。
このように、南薩摩の土の恵み、人の匠、そして水の恵みがあいまって、本格焼酎のふるさとと呼ばれるような地域を作りあげてきたのです。

焼酎・泡盛・清酒

その土地には、その土地にふさわしい酒が造られるものです。それは、政治的経済的なもので左右されるだけでなく、やはり風土的なものにも左右されてきたと言ってもいいでしょう。
かつて、清酒の蔵元の南限は熊本でした。一方沖縄には、泡盛があります。薩摩の本格焼酎をはじめ、九州のさまざまな焼酎を見る時、気温や湿度と麹との関係が、大きな影響を及ぼしていることがわかりました。
今日でこそ、温度や湿度の管理も容易になりましたが、昔の麹作りや仕込みは大変なものでした。清酒の黄麹や泡盛の黒麹、そして焼酎の白麹や黒麹・黄麹の復活など、その土地の酒は、先人たちの風土と麹との戦いの産物といってよいでしょう。
もちろん、その土地にふさわしい酒の造り方と、その土地そしてその人にふさわしい酒の飲み方とは、また別のことですが・・・・・。

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